●タップ創生期
1600年代中頃、舞台はニューヨーク。
移民の文化であるスコティッシュダンス、アイリッシュダンスに黒人奴隷の文化であるスレイブダンスがミックスされて、タップの原型となるステップダンス『ジューバ』が生まれました。
1800年代には、このジューバをフィーチャーした『ミンストラルショー』が誕生。
当時は、アイリッシュの白人によるショーでしたが、ジョークや歌やダンス、音楽で構成されたエンターテイメントである『ミンストラルショー』は、1840-90年にはニューヨークで最もポピュラーなエンターテイメントになりました。
その時代のスターがウイリアム・ヘンリー・レーン(マスタージューバ)です。
その後、1900年はじめには『バックダンシング』『バック&ウィング』という早いステップのダンスが生まれ、1910年代Tapsの登場により、現在のタップの形となって行ったのです。

William Henry Lane

from "American Notes" by Charles Dickens
マスタージュバ、本名はウィリアム・ヘンリー・レーン(1825年生まれ-1952年没)。
マスター・ジュバがアメリカ初の黒人エンタテイナーの1人とされ、このジュバがタップダンスの父と言われる事があるそうです。
イギリスの作家チャールズ・ディケンズがアメリカを訪れた際に、ニューヨークのファイブポインツで17歳頃のジュバを見ており、 「アメリカ紀行」に登場するダンサーがジュバと思われ、「元気のいい黒人少年」と称している。
●タップ全盛期
1920年代、ハーレムルネッサンスと呼ばれた時代。
黒人文化が華やかに表舞台に上がりました。
『コットン・クラブ』のような高級クラブがニューヨークに誕生。
当時、お客さんは裕福な白人、ショーに出演するエンターテイナーは黒人でした。
一世を風靡した『ミンストラルショー』に代わり、『ボードビルショー』が全米で盛んに行われるようになったのも、この時代。
『ボードビルショー』は“黒いブロードウェイ”と呼ばれました。
その時代の代表的なスターは“タップの神様”と呼ばれたビル・ボージャングル・ロビンソン
そしてリズムタップの父と呼ばれたジョン・バブルスたちです。

Bill "Bojangles" Robinson

John Bubbles
ビル・ボージャングルス・ロビンソン
(1878年5月25日 - 1949年11月25日)
ビル・ロビンソンは1920年代にボードヴィルで、1930年代に映画で人気を博した、アメリカの最初期の黒人の俳優。 ダンサーでもありアメリカ最高のタップ・ダンスの名人として知られていた。映画はシャーリー・テンプルと共演した作品が有名である。「ミスター・ボージャングル」というあだ名で全米に知られていた。
アメリカでは「タップの神様」と呼ばれたビル・ボージャングル・ロビンソンの誕生日にちなみ、毎年5月25日は「National Tap Dance Day」となっている。

https://www.youtube.com/watch?v=vj1KYaCIA5o
ジョン・バブルス(1902年2月19日 – 1986年5月18日)
本名:John William Sublett ジョン・バブルスは、ピアニストのフォード・リー・”バック”・ワシントンと組んで、「バック&バブルス」としても活躍したタップダンサー、ビル・ボージャングル・ロビンソンさんより24歳若く、ボージャングルのタップが、踵を上げた、明るく軽快な音色だとすれば、バブルスのタップは脚全体を高速でクロスさせたりとアイデアに富んでいて、足裏全体を打ち付けるスタンプを用いた重量級のビート感などが特徴的です。
https://www.youtube.com/watch?v=mq38QLBE6wM
●第二次タップ全盛期 ~ナイトクラブからハリウッドへ〜 
1930〜1940年にかけては、2つのスタイルが主流を占めた第二次タップ全盛期です。
ひとつは『フラッシュアクト』と呼ばれるアクロバティックなタップスタイル。
ナイトクラブでスターとなったニコラス・ブラザーズなど、多くのタップダンサーがグループを組み、競技的なタップを売り物にし、人気を集めました。
もうひとつは、コールズ&アトキンズなどで知られる『クラスアクト』と呼ばれるスタイル。
ソフトシューなど、エンターテイメント性よりもアーティスティックなタップを目指したタップスタイルです。
1940年代になると、ハリウッド映画の中でタップが数多く取り上げられ、フレッド・アステアレイ・ボルジャーエレノア・パウエルアン・ミラーシャーリー・テンプルなどが活躍。
1950年代にはジーン・ケリーも登場し、タップは世界中から注目を集め、愛される存在となりました。
しかし、この頃から1970年代まで、タップの仕事は映画がメイン。
ボージャングル、ジョン・バブルス、ニコラス・ブラザーズ以外の黒人タップダンサーにとっては、仕事のない辛い時代が続きました。

Nicholas Brothers(Fayard & Harold)


Coles & Atkins Charles       “Honi” Coles
ニコラス・ブラザーズ(Nicholas Brothers)
兄のフェイアード(1914年10月20日 - 2006年1月20日)と
弟:ハロルド・ニコラス(1921年3月17日 - 2000年7月3日)の
兄弟によるダンスデュオ。
彼らのアクロバティックなパフォーマンスはフラッシュ・ダンシングとも形容されている。 
※20数年前にNYの”Swing 46”で生のハロルド・ニコラスを見たのはうれしい思い出です。
https://www.youtube.com/watch?v=zBb9hTyLjfM&t=16s
Charles “Honi” Coles (1911年4月2日-1992年11月12日)
Charles "Cholly" Atkins (1913年9月30日-2003年4月19日)
1940年代から50年代にかけて「コールス&アトキンス」というダンサーとして活躍、ライヴショウ、映画、テレビなどで一世を風靡。彼らの動きは優雅で洗練され、二人は「クラス・アクト(上品なダンサー)」と呼ばれた。
https://www.youtube.com/watch?v=GUCkuiJbFtY

Fred Astaire

Ray Bolger
フレッド・アステア(1899年5月10日 - 1987年6月22日)
4歳からダンス・スクールに学んだアステアは、2歳上の姉のアデールとコンビで全米のヴォードヴィル劇場を巡演し、人気を得る。
17歳でブロードウェイにダンサーとして進出を果たし、その後、1933年に映画『ダンシング・レディ』を皮切りに数々の映画で名声を確立する。
1930年代から1950年代にかけてハリウッドのミュージカル映画全盛期を担った。
※一昔前はタップダンスと言えばフレッド・アステアでした。特に燕尾服とシルクハットは彼の代名詞のように感じます。
https://www.youtube.com/watch?v=faN0kPOQykM
レイ・ボルジャー(1904年1月10日 - 1987年1月15日)
ヴォードヴィリアンとしてキャリアをスタートさせ、「Sanford & Bolger」というデュオを組んでいたこともある。その後、ニューヨークへ渡り、ヴォードヴィリアンとして活躍する一方で俳優としての才能も開花させ、1930年代にはブロードウェイデビュー。1936年にはウィリアム・パウエル主演のミュージカル映画『巨星ジーグフェルド』で、映画デビューも果たす。
1939年にはジュディ・ガーランド主演のファンタジー映画『オズの魔法使』へ出演して、案山子男を演じた。それ以降も様々なテレビドラマや映画へ出演し、俳優としての確固たる地位を築き上げた。

https://www.youtube.com/watch?v=41OVgqQ3eYc

Eleanor Powell

Ann Miller
エレノア・パウエル (1912年11月21日 – 1982年2月11日)
舞台と映画で活躍、情熱的なソロのタップダンスで一世を風靡し、「タップの女王」と呼ばれた。フレッド・アステアとも数々の映画で共演をしている。

https://www.youtube.com/watch?v=37XhIuqsWVk
アン・ミラー(1923年4月12日 - 2004年1月22日)
1930年代から1950年代にかけてのミュージカル映画で活躍したタップダンスの名手。

※ちなみに映画『イースターパレード』で着ていた衣装はわが師・佐々木隆子先生も同じ物を作って、舞台でよく来ていました。

https://www.youtube.com/watch?v=yvhJUE_XNWs

Shirley Temple

Gene Kelly
シャーリー・ジェーン・テンプル(1928年4月23日 - 2014年2月10日)
子役時代にビル・ロビンソンとの共演して、一世を風靡。のちに外交官になり、その功労が特に認められ、正式な呼称は、生涯シャーリー・テンプル・ブラック大使 (英: Ambassador Shirley Temple Black)と呼ばれたそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=rFlIx5_jaQA
ジーン・ケリー(1912年8月23日 - 1996年2月2日)
1938年からブロードウェイでダンサーをしていたが、1941年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー入りをし、1942年に映画デビュー。
デビュー作は『フォーミー・アンド・マイ・ギャル』でジュディ・ガーランドと共演した。特に『雨に唄えば』は大ヒットし、誰でも知る映画となる。
※ジーン・ケリーはフレッドアステアと人気を二分した俳優であり、ダンサーですが、フレッド・アステアが優美さと表現するならば、ジーン・ケリーはダイナミックで力強いイメージでしょうか?
https://www.youtube.com/watch?v=w40ushYAaYA
●タップ衰退期
1950年代後半から1970年代は、俗に「タップが死んだ時代」と呼ばれ、TVの出現やベビーブームにより、人々は劇場に足を運ばなくなり、劇場は次々につぶれて行きました。また、音楽の分野でもジャズのブームが過ぎ、ロックンロールなど音の大きな音楽が流行して、タップを入れる余地がなくなりタップは衰退。
歌を歌えたサミー・デイビス・Jrや振付の仕事をしていたアーサー・ダンカン以外のタップダンサーは、他の仕事をしながら細々とタップを続け、また、仕事を求め、ラスベガスなどに移り住んで行きました。
しかし水面下では、ボージャングル亡き後、彼の遺志を継いだ『コパセティックス』という名のグループも生まれました。
『コパセティック』とはボージャングルの口癖で、「すべてOKさ!心配いらない」という意味のユダヤ語。
しかし、そこには「すべての人をリスペクトしよう。すべての人に権利を」と言う真意を含んでいました。
『コパセティックス』のメンバーはバスター・ブラウン、ハニー・コールズ、アーネスト・ブラウニー・ブラウンブッバ・ゲインクッキー・クックなど。
彼らは不遇の時代をいつも楽しく生きたボージャングルのように「人生を楽しく」と前向きにとらえ、歌い踊り、人々に夢と希望を与え続けました。

Sammy Davis Jr

Arthur Duncan
サミー・デイヴィスJr. 本名:Samuel George Davis, Jr.
(1925年12月8日 - 1990年5月16日)
ニューヨーク州のハーレム地区でボードヴィル・ショー巡業を生業とする一家に、アフリカ系アメリカ人の父とプエルトリコ系ユダヤ人の母の間に生まれ、幼少の頃から音楽や楽器、ダンスのレッスンを受け、3歳のときに初舞台に立つ。
※サミーデイビスJrで思い出すのはサントリーのウイスキーのCMでしょうか…あの軽快なリズムは流石のエンターテイナーです。
https://www.youtube.com/watch?v=f4qZFDj7cAc
アーサー・ダンカン(1933年9月25日- )
アーサーダンカンはアメリカのタップダンサーで、1964年から1982年までローレンスウェルクショーの出演者として知られ、さまざまなテレビ番組でアフリカ系アメリカ人の最初のレギュラーになりました。
※アーサー・ダンカンは2019年のInternational Tap Festivalで来日していますがエンターテイナーぶりを発揮していました。
https://www.youtube.com/watch?v=nxFr-wSgIu4

Dr. James ‘Buster’ Brown

Ernest "Brownie" Brown
バスター・ブラウン(1913年5月17日-2002年5月11日)
伝説的タップダンサーの一人で、「フーファーズ(The Hoofers)」としてジミー・スライド、チャック・グリーン、ベイビー・ローレンスらと共に「ハーレム・アップタウン・オールスター・ダンサーズ」として、ヨーロッパの各都市を回るジャズ・フェスティバルに参加。また、「コパセティックス」と言う、グループのメンバーでもありました。※バスター・ブラウンをあまり知らなかったのですが、もしかしたら、NYのSwing 46のタップジャムのホストをしていたのが彼かもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=PxkvArnx7Pc
アーネスト・ブラウニー・ブラウン(1916年4月25日-2009年8月21日)
アフリカ系アメリカ人のタップダンサーであり、オリジナルのコパセティクスの最後の存続メンバーで、チャールズ「クッキー」クックのダンスパートナーでした。

https://www.youtube.com/watch?v=LcmQOoPEewA
https://www.youtube.com/watch?v=L3U_Gf5xF48&list=PLvlv25Ud35QlvabW_4_z-06k3_DMi8Ro-

Charles “Cookie” Cook and bubba gaines
クッキー・クック (1914年2月11日-1991年8月8日) ブッバ・ゲイン (1917年2月12日-1997年6月3日)
●タップ再生期
1970年代後半から、白人のモダンダンサーであるブレンダ・バッファリーノリン・ダリージェーン・ゴールドバーグなどが、それまでタップを築いてきた“タップマスター”と呼ばれる黒人のタップダンサーたちにリズムタップを学び始め、新しい形のタップアートフォームを作り上げていく活動を開始。
その結果、1980年代にはアートとしてのリズムタップを表現する数多くのタップアンサンブル・カンパニーが生まれました。
リズムタップ再生のために、ジェーン・ゴールドバーグが初めてNYでタップフェスティバルを開催したのは1980年。
その時の講師は、1950年代〜1970年代のタップ衰退期にもボージャングルの意志を継ぎ、唄い踊り続けた『コパセティックス』のメンバーとグレゴリー・ハインズでした。
一方、ブロードウェイでは『42ndストリート』『タップダンスキッズ』『ソフィスティケイテッド・レディース』など、タップがメインのミュージカル作品が盛んに上演され、「タップと言えばブロードウェイ!」と言われたほど。
1980年代は、エンターテインメント性重視のブロードウェイスタイルが主流を占めた時代でもありました。

Brenda Bufalino

Lynn Dally
ブレンダ・バッファリーノ(1937年9月7日-)
TAP業界を常にリードしてきた女性パフォーマーの第一人者。
故ハニー・コールズのダンスパートナーとしても知られる。1986年タップカンパニー「アメリカンタップダンスオーケストラ」を創設、当時のタップ業界に革新的なアンサンブルの新風と、高い音楽性のリズムタップ旋風を起こした。1989年Woodpecker Tap Dance Centerを設立、約10年間後進の指導に力を注いだ。

https://www.youtube.com/watch?v=rDL7ha8WS44
リン・ダリー(1941年12月3日-)
女性タップマスターの一人。1979年に ダンサーFred Strickler とCamden Richmanと 一緒にJazz Tap Ensembleを設立し、コンサートやステージ用にオリジナルのタップの振付を多数作り、世界中で知られるようになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=s4YtMrfCpdo

Jane Goldberg

Gregory Hines
ジェーン・ゴールドバーグ(1948年2月2日-)
Jane Goldberg is a comedian, writer, tap dancer and key architect of the tap renaissance of the 1970s. She is the founder of the Changing Times Tap Dance Company and the author of the book “Shoot Me While I’m Happy,” with foreword by the late Gregory Hines. Her extensive tap archives now reside at the New York Public Library for the Performing Arts and are open to the public. Her main act is Rhythm & Schmooze, and she has a Traveling Tap Museum.
https://www.youtube.com/watch?v=N0CmP2jafrE
グレゴリー・ハインズ(1946年2月14日 - 2003年8月9日)
まさにタップダンス界を隆盛させた一人。。3歳から、タップマスターのヘンリー・レタンに師事し、8歳で兄のモーリス・ハインズと『The Hines Kids』として活動を始める。一時タップから離れるが、約5年を経て再び1978年には兄と共にミュージカル『Eubie!』に主演し、トニー賞にノミネート。1992年にセビアン・グローバーを起用した『 Jelly’s Last Jam』にてトニー賞を受賞。 1984年にはフランシス・フォード・コッポラ監督の映画『Cotton Club』 に出演。1989年には映画『TAP』にてサミー・デイヴィスJr.、サンドマン・シムズ、ジミー・スライド、バニー・ブリッグスらタップマスター達と共演し、主演を務めた。しかしながら、2003年8月9日に癌により57歳の若さで亡くなりました。
2019年にはアメリカの切手になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=mnbSrnGmErs
●タップ革命期
1980年代後半には、グレゴリー・ハインズが映画やTVに出演。主演映画の『TAP』が公開され、タップは一般の人にも広く知られる存在となりました。
また、彼はタップをロックと融合させるなど、音楽的にも新たなフィールドを切り拓き、再びタップブームを巻き起こしました。
この頃、ブロードウェイで上演されていたのが、JAZZと密接に繋がっていたリズムタップを取り入れた「ジェリーズ・ラスト・ジャム」やパリ公演で大成功をおさめた『ブラック&ブルー』です。
『ジェリーズ・ラスト・ジャム』は、グレゴリー・ハインズが主役を務め、若きセヴィオン・グローバーが共演。
セヴィオンの類い希な才能が見出された作品でもあり、彼の才能を目の当たりにしたグレゴリーが「タップ界での自分の役目はすでに果たした。
後はセヴィオンに託そう」と思うきっかけになった作品でもありました。
事実、この舞台以降、グレゴリーは映画で役者としての仕事をメインに活動していくようになりました。
『ブラック&ブルー』は、Dr.バスター・ブラウン、Dr.ジミー・スライドDr.バニー・ブリッグスロン・チェニーなど第一次タップ全盛期を支えた往年の偉大なタップマスターたちをキャスティング。
振付はDr.へンリー・レタンでした。
そして、当時まだローティーンだったドーメシア・サンバリー・エドワードとセヴィオンも共演。
マスターの一人であるダイアン・ウォーカーもこの作品でタップ界にカムバックし、「タップ界のファーストレディー」と呼ばれるようになりました。
また、今では有名になったフーファーズラインも、このミュージカルで初めて表舞台に上がったのです。
各地でタップフェスティバルが行われるようになったのもこの頃で、1986年のコロラド・タップフェスティバルを契機に現在のITA(Internatinail Tap Association)が誕生。
以後、各タップフェスティバルでは、タップの歴史やマスターたちへのリスペクト精神などを伝え、タップを教育の場・人間形成の場としていこうとする動きが生まれ、その精神は今日に受け継がれています

Savion Glover

Jimmy Slyde
セヴィアン・グローバー (1973年11月19日 - )
7歳で地元のドラム教室に通い始め、そこでリズム感を見い出されてダンス教室に通うことを勧められる。
その教室でプロデューサーの目に止まり、12歳のとき『タップ・ダンス・キッド』でブロードウェイに代役としてデビューし、続いて15歳の頃に出演した『Black & Blue』にて、当時最年少としてトニー賞にノミネートされた。
1989年、映画『TAP』にてグレゴリー・ハインズと共演、映画デビューを果たす。
23歳で自ら製作・主演したBring In Da'Noise, Bring In Da'Funk『』でトニー賞最優秀振付け賞など3部門を受賞。2002年には日本公演も実現し、2006年には3DCGアニメーション映画『ハッピーフィート』において、主人公マンブルのモーションアクターを務めた。
※ブロードウェイで観た『Bring In Da'Noise, Bring In Da'Funk』は衝撃でした。また、NYのCapezioで、シューズの裏に瓶の王冠を付けたのがあり、誰が履くのか聞いたら、「セヴィアンだよ!と教えてくれた。
https://www.youtube.com/watch?v=jVbfmfI4-0s
https://www.youtube.com/watch?v=ZqMk-HDzfbY
Dr.ジミー・スライド 本名James Titus Godbolt
(1927年10月2日–2008年5月16日)

12歳でタップダンスを学び始め、1940年代後半から1950年代前半にかけて、デューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団のビッグバンドと全米のクラブツアーを共にします。
2002年には、オクラホマシティ大学から、舞台芸術の名誉博士号を授与されました。
彼の代名詞のテクニック「スライド」タップダンサーにとって憧れで「King of Slyde」と称されています。

https://www.youtube.com/watch?v=oW3CbQZSVIs
https://www.youtube.com/watch?v=iyxhz4dCjmE&list=RDQMT_wGhqQiO1M&index=7

Bunny Briggs

Lon Chaney
Dr.バニー・ブリッグス(1922年2月26日-2014年11月15日)
2006年にアメリカのタップダンス殿堂入りを果たしたアメリカのタップダンサー。
ニューヨークのハーレムで生まれ、1960年代にハンプトンやエリントンなどの楽団と踊ることが多く、ブリッグスは「デュークのダンサー」と見なされていました。
グレゴリーハインズの映画 『タップ』にも出演しておりますが、ブリッグスもオクラホマシティ大学から名誉芸術演劇博士号を授与されました。

https://www.youtube.com/watch?v=YidqCrJ-YoM
ロン・チェニー(1927年1月27日-1995年1月31日)
「King of the Paddle and Roll」と称されるリズムタップダンサーの一人。
最初はボクサーとしてスタートした彼は、ニューヨーク市に引っ越した時にタップダンスに興味を持ち、ストリートでタップを学びました。
1960年代と70年代に、チェイニーはチャック・グリーン、ジミー・スライド、ラルフ・ブラウン、ベイビー・ローレンス、レイモンド・カーランドなどのオリジナル「Hoofers」のメンバーでした。

https://www.youtube.com/watch?v=Sn_e_DkT8EI&t=38s

Henry LeTang

Henry LeTang with me
Dr.へンリー・レタン(1915年7月19日-2007年4月26日)
ブロードウェイのタップダンサーであり、振付家でもある。
ヘンリーレタンは7歳のときにダンスリサイタルを見た後、タップダンスに夢中になり、17歳では自分のスタジオを開きました。
ヘンリーレタンの教え子は数知れず、グレゴリー・ハインズやセヴィアンも知られるところです。
※わが師、佐々木隆子先生もNYに行くとヘンリーレタンの個人指導を受けていました。
https://www.youtube.com/watch?v=sxg2Yzj273M
私がNYに行った折、たまたま、ヘンリーレタンのワークショップが開かれており、急遽、参加しました。教室は、アメリカ各地からの教師達も含めて、溢れかえっており、満杯状態で、ヘンリレタン氏は遠くの方に見えるだけ…そして、2時間のWSは2時間半が過ぎても終える様子もなく、私はとうとうギブアップ!
しかし、その後、ロビーに居たヘンリーレタン氏を見かけ、ヘンリーレタン氏に隆子先生が亡くなったことを伝えました。ラスベガスに引越しされていることを知らず、ヘンリーレタンに伝えることが出来なかった佐々木隆子先生の死…ヘンリーレタン氏も、ショックだったようです。
その時に、「自分がNYに来たミッションはこれだったのか!?」と安堵しました。

Dormeshia Sumbry-Edwards

Dianne Walker
ドーメシア・サンバリー・エドワード(1976年1月16日-)
ドメーシアは3歳でタップをはじめ、12歳の時にグレゴリーハインズ、ジミースライド、バスターブラウン、サビオングローバーらと共にミュージカル『Black and Blue』でブロードウェイデビューしました。
その後、はトニー賞を受賞した、セヴィアン・グローバーの『Bring In Da'Noise, Bring In Da'Funk』の国際ツアーに出演。ブ
リングインダノワーズ、ブリングインダファンクブロードウェイ、および国際ツアーにも出演しました。

https://www.youtube.com/watch?v=M9qiwXhJjko&list=PL8BF277023B2FE128
ダイアン・ウォーカー(1951年3月8日-)
幼少の頃、ボストンのMildred Kennedy-Bradicのもとでタップを始め、後にリオン・コリンズ、ジミー“サースライド”ミッチェル、ジミー・スライドから学ぶ。
1997年プロダンサーとしての活動を始め、リオン・コリンズ カンパニーのメンバーとして活躍。
後にリオン・コリンズ ダンススタジオのディレクターとなり、後身の指導にあたる。
「アメリカタップ界のファーストレディ」と称され、愛されている。

https://www.youtube.com/watch?v=MbXQXIgy2Bw
https://www.youtube.com/watch?v=S413WN7pBxE
■新しい流れ
1990年代、グレゴリー・ハインズを“兄”、マスターたちを“父”と慕って育ってきたセヴィオン・グローバーが、ブロードウェイミュージカル『ブリング・イン・ダ・ノイズ・ブリング・イン・ダ・ファンク』で大ブレイク。
ヒップホップとタップを融合し一世を風靡したこの作品の登場により、それまで女性ファンが多数を占めていたタップの世界に新たな若い男性ファンが加わりました。
この頃からハードヒッティングというパワフルなタップスタイルが流行。
ビル・ボージャングル・ロビンソンが愛用していたウッドソールのタップシューズのように靴底を厚くするビルトアップスタイルをさらに進化させた、セヴィオン仕様のシューズの人気も高まりました。
セヴィオンの影響力は強く、空前のタップブームを巻き起こし、タップ人口は急増しましたが、多くのタップダンサーがセヴィオンのコピーのようになってしまい、また、「タップを黒人の手に取り戻そう」と言う動きはミュージカルシアターのタップとの対立にもつながることから、今度は逆に白人の講師が職を追われる社会現象が起きるなど逆差別を生むことも。
ミュージカルシアタータップのダンサーや女性タップダンサーの中には、自らのあり方について悩み、模索しながら生きていった人も少なくありませんでした。
■リスペクト
2000年代に入り、改めてコパセティックの精神に立ち戻ったタップダンサーたちは、互いをリスペクトすることを再確認。
現在は、さまざまなスタイル、さまざまな年代が共存し、良いバランスが保てる時代になって来ました。
このさまざまな世代、スタイル間の橋渡しに貢献したのが、グレゴリー・ハインズです。
グレゴリーが病のため57歳の若さで他界したのは2003年8月9日。
タップ界は衝撃の涙に包まれ、この日、セヴィオンは狂ったように泣き通したと聞いています。
グレゴリーの死により、タップファミリーの絆はより一層強くなっていきましたが、悲しいことにここ数年、第一次タップ全盛期を支えてきたタップマスターたちも、高齢のため次々に他界していきました。
彼らが残した偉大な財産は、技術だけでなく、タップを愛する心、そして幸せに生きる術。
セヴィオンは「すべてのタップダンサーはマスターたちの偉業を伝える義務がある」と語っています。
その思いに応えるように、現在、古きよきものを継承する動きは盛んになっており、10代の若きタップダンサーがマスターの作品を粋に踊って観客を沸かせ、ブロードウェイでは、歌も芝居も出来る実力派タップダンサーを育てようという動きも生まれています。
また昨今は、アメリカ以外の独自の国の文化を融合させた各国のタップダンサーたちも認められるようにもなり、タップはグローバル化の時代を迎えました。
タップは文化です。文化は人から人へとつなぐ鎖です。タップは私たちの国で生まれた文化ではありませんが、タップを愛する心に国境はありません。
皆で大きな長い長い鎖の小さな一つになって生きていけたら、こんなに素敵なことはありません。
この『Hitory of Tap』はみすみ"Smilie"ゆきこ氏が『tapmagazine-jp』に連載された記事を引用して作成しております。ブルー枠の部分はみすみ先生の投稿記事になります。
白枠の部分、経歴、youtube動画は私が付け加えたものになりますが、いずれにしても、タップダンスに関わっている人は、このような先人達がいて、自分が成り立っている事を知り、リスペクトしつつ、タップを楽しんでもらいたいと思います。 尚、記事の掲載にあたっては、みすみ先生の許可を頂いております。

資料提供:みすみ"Smilie"ゆきこ
日本から本場アメリカにゲストアーティストとして招かれるという前人未踏の快挙を成し遂げ、国内はもちろん、世界各地に招聘され国際的に活躍。日本では加藤邦保氏に、NYでは巨匠Dr.Henry Le Tang氏に学び、継承を託された世界でも数少ない1人であり、その後も、数多くのタップマスターから学び、歴史を継承する役割を果たしている。
また、International Tap Association(ITA)日本代表として、インターネットが発達していない時代から日本の情報を世界に発信し続け、日本と海外の橋渡しの役割も担っている。
日本タップ奨学生制度(JTSP)、ARTN TAP DANCE STUDIO、ARTN Company主宰。BASEMENTタップシューズアドバイザー、東京International Tap Festivalディレクターも務めている。


シュガーフット・ダンススタジオ
〒160-0002
東京都新宿区四谷坂町5-14 ドエル四谷1F
03-3351-2099
定休日:月曜日


  • シュガーフット・ダンススタジオ